3月

啓蟄の包帯解けばゆび皓き

啓蟄のいきなり水を撒かれけり

春の夢の糸口すらも忘れけり

畦ゆけば愕きやすき昼蛙(ひるかわず)

夕風のささなみなせり遠蛙

まなうらの故郷に聞く遠蛙

花種を蒔く癌切りし父のため

球根埋め邪(よこしま)な恋してをり

猫に足捕られてをりぬ春炬燵

父のためしまひかねつつ春炬燵

新聞に少女の自殺春疾風

鳥雲に働ける人一瞥す

蝶ふたつ蜜月のごとゆきゆきぬ

冬終る身軽になりし女の腹

身もかろく心もかろく水温む

春の水身ごもりしひと微笑みぬ

春風を孕むマタニティードレスかな

春水を石がぴよんぴよん跳ねてゆく

安物の指環大事に春愁ひ

しつかりとひとつ歳とり青き踏む

如月の水にガラスの珠洗ふ

冴返るばかりガラスの都心なり

瘡蓋を剥がすゆびさき冴返る

啓蟄の瘡蓋いよゝむず痒し

春河にたくらむ心流しけり

天意ありて春大川の急がざる

春の土掻き分けて猫執着す

癌切りて父存ふる春の虹

春寒や父に胃袋すでに無く

山笑ひ癌切りし父胡座かく

冴返る胃腑なき父の正座かな

春日さす術後の父の土不踏

針ほどの残る寒さや病む父に

立飲みの酒も旨しよ春の宵

ハンカチーフ数枚買ひて春となり

木の椅子をぎしぎし泣かせ卒業す

うららかや京菓子ならぶショーケース

美しき菓子をいただく春の午後

春愁や食ぶるばかりの去勢猫

指さして比叡をさがす霞かな

足らざれば酒買ひに出る春の宵

椿落つきのふのやうにけふも過ぎ

泪にあらず淡雪の別れかな

踏青や鍵につけたる鈴鳴りて

若鮎のひかり見にゆく亡母の里

縷々と蟻出で来て大事あるごとし

らうたけて恋せぬ猫の美声かな

鳥雲に濁世小さく小さくなる

鳥雲に入るしがらみは地に残り

なんとなく穏やかならず落椿

ふわふわと沈みておたまじやくしかな

己が身がまだ重たさう蛙の子

窓開けてオムライス食ぶ麗かな

戦慄(わなな)ける電線の空冴返る

春陰やうつむき癖のある少女

春霙(はるみぞれ)所詮は人のこころかな

サングラスはづして仰ぐ初桜

春の虹頬杖ついてゐて知らず

穴といふ寂しさに降る忘れ霜

海青く陸(くが)蒼ければ鳥雲に

鳥雲に入り渺々と亜細亜蒼し

囀りの中にふたりのささめごと

春禽の幸はこぶよに来てをりし

春落葉をとこやもめに降りやまず

春睡を音なく金魚よぎりけり

山脈のうねりうねれる雪解かな

愚かしく聡く生れたる蝿が逃ぐ

蝿生れて先づ老人の辺にとまる

蝶逃げて壁にぶつかる影法師

柳絮とぶぶつかりさうでぶつからず

不器用で春一番にぶつかりゆく

千年の古都の十方冴返る

しとやかに訪ね来し娘や初蝶も

悲しい日金魚の水を替へてやる

草臥(くたび)れて地べたに坐る春暑かな

草萌えに来て青年の息荒し

しつかりと老いしつかりと耕せり

老人の背なにしたゝる春夕焼

春雪や老いしひと何くちずさむ

春愁の脚投げ出だす椅子がある

春愁のピーナツ食ひてきりもなし

更けきつてなほも鏡の朧かな

叱つても諭しても駄目恋の猫

春日に早や黒ずんで働ける

ちがふこと二人おもひて朧の夜

春の闇をんなささめく耳の側

求め来し閑けさにゐて春愁ひ

春の野に誰かが落つる落し穴

春昼の懈怠や蜂は脚垂れて

蜂飛んで陽に近づいて見えずなり

春陰に待ちし吸殻踏みにじる

ゆつくりと生きむとすれど椿落つ

花の夜の老衰といふ大往生

花の下楽な死に方考ふる

春空や紙ヒコーキの宙返り

春空へ一煙のぼる訣れかな

生業のシャツにも降りし黄砂かな

遠くなり逢へずなり黄砂降りしきる

傷だらけの硬球拾ふ冬河原

事もなくけふ過ぎゆくも春愁

深く吸へば深く吐くなり春愁

ななめ坐りして春愁の風情かな

朱の鳥居朱の欄干(おばしま)に春しぐれ

西山に瑠璃空見ゆる春しぐれ

春海を死にたはやすき崖で見つ

せめぎ合ふ如き星屑冴返る

朝桜まぼろしと見て勤めゆく

死ぬ勿れせめて淡墨桜まで

退職者襟立てて去る春コート

春風邪の寧ろ艶(なま)めくをんなかな

生半な恋にはあらじ落椿

春昼の喪にゐて欠伸噛み殺す

春の夢切れ切れに見し朝ぼらけ

蝿生れ逆しまに世を見てをりぬ

眩しみつ見る渾身の雪解とて

何ひとつ変らぬ蜆売りが来る

盲人のまなぶた深く風光る

アパートの窓から限りなくしやぼん玉

憤懣や脹らみきりしゴム風船

風船の一気に萎む不況の街

蝶々に慕はれてゐるピアノかな

出でし蟻摘まんとして手くらがり

春愁の引かずともよき籤を引く

春愁のトランプ占ひなどしをり

いい女連れて春雨降つてくる

遅日なる巌を梃子で動かせり

冴返る時計の電池切れてをり

てのひらに春の夕焼にぎつて帰る

老人の正座美し竹の秋

桃咲いて母も娘も多産なる

春宵の七味美しにしんそば

穴出でし蛇の全長すゝみけり

恋猫がとほき恋猫聴き澄ます

去勢猫の頭撫でゐて春愁

頑なな石を動かす日永かな

冴返る真顔の己れ見る鏡

直路(すぐろ)行く淋しさまして春落葉

春月へそつと遊びに出かけけり

蝶の昼黙つてをれば静かなる

初蝶やふらんすパンを買ひにでて

てふてふに生れし不幸追はれゐる

初蝶や中年の眼にいや白き

待つことは祈りに似たり水草(みくさ)生ふ

三月の日照雨(そばえ)に綺羅と濡れてゆく

青き踏む一歩一歩をねもごろに

蝶失せて官庁街ののつぺらばう

呱々(ここ)のこゑ春の虹より聞こえ来る

身寄りなき墓にも彼岸団子かな

花菜雨(はななあめ)濡れて大人がはしやぎをる

追ひかけて追ひかけられて花菜風

春寒やにしんそば食ふ鞍馬口

風はもう光らず泪涸れし眼に

不時着せしジャンボの如き斑雪かな

手話人の手のひらひらと風光る

陽炎を踏む余所者の足もちて

陽炎ふて昭和のままの場末あり

燕来やいそいそとして交差点

東風吹かば濁世といへど眩(まばゆ)けれ

菜種梅雨をんなの雨具皆かはゆし

シャンプーのかほりの少女春の風

十姉妹番(つが)ひで飼へり春の風

くちづけの後の唇春の風

しみじみと牛が鳴くなり朝朧

ああ雪解地図の水色ゆびで辿る

東山霞める京を愛しけり

地下鉄を降り蟻たちが穴を出る

歳月を束の間と見し春の夢

春の灯を幸ある如くともしおく

春愁や七面鳥のくぐもるこゑ

雑草(あらくさ)の蕾の紅き春の雨

人形にもの言ふ童春夕焼

おほどかや蚯蚓(みみず)の食める春の土

駘蕩やどんぶり飯を食はんとす

春闘が会社の隅に妥結せる

ねもごろに路教へらる麗かな

列島の背中の辺り冴返る

冴返る祖父の写真(うつしえ)笑むことなき

祖父の代の柱時計の音朧

単三の電池が切れて冴返る

青々と麦鋭(と)く立ちて過疎の村

風光る少女の手足長かりし

東風吹かば手紙千切つて千切つて捨つ

年上のひとに甘ゆる朧の夜

欠伸して泪が出たり山笑ふ

近づけば近づくほどに山笑ふ

春雷や怒りて泣いてゐる女

水温む猫桃色の舌出して

春の波仔犬の脚をそと濡らす

逃げ水を追ひかけてゐる四駆かな

春泥につかまつてゐる三輪車

花種を蒔きて嫁がぬ女かな

春燈下母の形見を分けむとす

握飯(むすび)食ぶ一人離れて薊(あざみ)の辺

時ならぬささめき聞こゆ春の闇

風光る少女の脚のリズムかな

春の薔薇ひとを愛すに理由なし

亡母思ほゆ時の間を降る忘れ雪

在りし日の母と踏みたる青き踏む

卒然と海につながる青き踏む

帰らうと犬の鳴きをる春夕焼

野遊びのほつほつ帰る夕陽かな

麦を踏むをとこと遂に目の合はず

耕され土燦々と笑まふかな

野を焼いていにしへびとの貌になる

焼野に佇つ亡びしものの裔(すえ)のごと

盛る火と鎮もる火ある野焼かな

太初より火のうるはしき野焼かな

花種を蒔き最後に空を仰ぐ

花種を蒔きゆつくりと癒えてゆく

春の夜のうすあかりにてひとと逢ふ

花の夜や別れしひとと逢へさうな

約束をやぶられてゐる遅日かな

二三人遅日のバスに揺られをり

野遊びの靴と靴下ぬぐ子かな

星空のふらここに揺る夫婦かな

ふらここが高層ビルを蹴り上る

A棟とB棟の谷半仙戯(はんせんぎ)

老人をいつも待つふらここのあり

強き酒飲みて忘るる花疲れ

どんよりとしてきて帰る花疲れ

花冷の花散るまじく蒼ざむる

頬杖にまた春睡を支へをり

春睡の雲へと白き階(きざ)のぼる

春眠の迷路を行きつ戻りつす

アブサンで宴のはじまる春の宵

カクテルの色とりどりや春の宵

花冷の夜のマティーニを飲む男

きのふさへ既におもひで鳥雲に

また一つ増ゆる空室鳥雲に

すでに亡き人のおもかげ鳥雲に

春愁の三面鏡に吾三人

春愁や合せ鏡のわが背(そびら)

春愁の鏡のをとこ自嘲せる

春寒くをとこが辞めてゆきにけり

春暁の波しづけくも力あり

ネオン街ぬけて朧の店に入る

揚雲雀天日の他なにもなし

小さき眼に吾を見るらむ揚雲雀

ふるさとの夕餉は遅し遠蛙

春光の紙飛行機の真白かな

急流へ枝垂れ桜の散るこころ

まなうらになほ煌々と夜の桜

夜桜を離(か)れても顔の火照りかな

夜桜にふつとうつつを抜けてゐる

月光を零して落花二三片

花明り幸福な死でありにけり

桜見て去来の墓もしつかり見る

花疲れ去来の墓を見て癒す

草青む買つたばかりのスニーカー

遅日なる太陽ビルに引つ掛かる

春昼やサーカス来る大看板

春愁ふピエロをかしくかなしくて

ピエロウの貌から溢れ春愁ひ

春愁ふ猫捨てて去る人見たり

捨仔猫汚れし毛並み皆ちがふ

夜桜を仰ぐかたちに抱擁す

昏れてなほ賀茂の明るき初桜

花人になりゆく現し身をつれて

天網に綻びありて鳥雲に

わが胸を過りて鳥は雲に入る

珈琲にミルク溶けゆく鳥雲に

辛夷咲く何も握らぬ赤子の掌

春の洋まぼろしのまま船消ゆる

靴下を足で脱ぎつつ日永なる

裸婦像に体温のある日永かな

春しぐれ過ぐる間に人一人死ぬ

知らぬ間に花片ひとひら喪の肩に

春愁や真白き紙のうらおもて

春北風知らぬ男に莨火(たばこび)貸す

春寒き駝鳥はけふも走らない


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